がんばらない主婦の自由帳

転勤族妻がゆる~く日常を綴ります

「体育のトラウマ」を大人になっても引きずっている

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こんにちは。はちです。

 

突然ですが、私は超ド級の運動音痴です。診断されたわけではありませんが、「発達性協調運動障害」なのかなと思っています。

 

キャッチボール、できません。

自分の胸のあたりに飛んできたボールはキャッチできますが、それ以外はまず捕れません。視覚から得た「飛んでくる」という情報に合わせた位置に、手を伸ばすことができないのです。

ボールを遠くに投げることもできません。

前に投げるつもりのボールが気づいたら自分の後ろに転がっていたりします。「ボールを投げる」と口で言うのは簡単ですが、手の振り方、ボールを離すタイミング、体の回転など、色々な要素が複雑に組み合わさっています。

タイミングがずれると、ボールが後ろに転がったり、地面に投げつけてしまったりします。たまに上手く跳んでも、同じ投げ方を再現することができません。

 

小さい頃はよく父がキャッチボールをしてくれましたが、「ボールをキャッチする遊び」ではなく、「投げられたボールを追いかけて拾ってくる遊び」と化していました。

そんな私の後に3歳差で生まれた弟は、両親から「キャッチボールがとっても上手!すごい!将来野球選手になるんじゃない?」とちやほやされていましたが、比較対象の私がやばすぎただけでした。

 

 

マット運動、できません。

前転と開脚前転はできます。それ以外が全くできません。

後転の練習で躓いて、そこから先に進めませんでした。

「手の平を上に向けて耳の横につけて、勢いをつけて後ろに回る」

その理屈は分かります。でも、足が全くマットにつかないのです。

先生は「怖がらないで!勢いよく行って!」なんて言いますが、私としてはそんな問題ではないのです。

足先がマットにつくビジョンが全く見えない。何をどうすればいいのか全然分かりません。

たまたま小学校の体育の授業中、校長先生が授業見学に来ました。

後転が出来ない私と友人のため付きっ切りで指導してくれました。

マットを数枚重ねて傾斜を作り、高いところから転がすような形で後転を練習したのですが、その時はじめて後転が出来て、校長先生や友人とハイタッチして大喜びしたことを覚えています。体育の授業の中での数少ない成功体験です。

その後、傾斜のないマットでは、やっぱり後転が成功することはありませんでした。

 

 

こんなレベルの運動音痴なので、体育には嫌な記憶しかありません。

運動が極度に苦手な人の中には、学生時代の「体育の授業」の経験がトラウマになっている人も多いのではないかと思います。

私は定期的に過去の体育の授業を思い返してうわーーーーー!!となります。

時折、学生時代の思い出について夫と話すことがあるのですが、いつも最終的には「体育の授業への愚痴」に帰着します。

 

いつまでも夫に体育の愚痴を聞かせるのも悪いので、今回はブログに「体育の授業で嫌だったこと」を書き殴って気持ちを昇華させてみようと思います。

 

 

 

 

「出来ない」を理解してもらえない

 

 

体育の先生になる人って、元々運動が得意な人が多いのかなと思います。

そのような人から見ると、私レベルに運動が出来ない人間は「ふざけている」ように見えるのかもしれません。

「ふざけている」=「やる気がない」と思われるのか、体育の授業では割と放置されがちでした。私が出来るようになるまで指導を続けると他の人への指導が滞るので仕方のないことだとは思うのですが・・・。

 

出来ないままどんどん授業は先に進んで、「なんで出来ないの」、「真面目にやって」となるのが辛かったです。

 

 

努力を認めてもらえない

 

 

中学時代は実技が出来ない分、授業前後の準備・片付けや筆記試験を頑張っていました。行きたい高校を目指すうえで不利にならないよう、通知表の評価が少しでも上がればと思っていました。

持久走やシャトルランなどの技術のいらないものは、クラスで中の下くらいの順位にいました。出来ないなりに気合で頑張っていました。

でも、どんなに頑張っても、実技以外の点は全く評価してもらえません。持久走を頑張っても、一学年150人ほどいる中で筆記試験で一桁台の順位を取っても、5段階評価で評定2でした。

 

私の通っていた中学校では、2学期に「柔道」・「ダンス」の選択授業がありました。男子の大半が「柔道」、女子の大半が「ダンス」を選ぶ中、私は毎年「柔道」を選択していました。同じく運動音痴な友人たちも「柔道」を選びました。

ダンスの授業では集団で創作ダンスを作るので、運動音痴の人間は足を引っ張って周囲から浮いてしまいます。でも、柔道なら個人技なので周囲に迷惑をかけないというのが一番の理由。

二番目の理由は、「柔道を担当する男の先生は評価が甘い」ということ(笑)

1学期と3学期は5段階評価で必ず評定2の私ですが、2学期だけは毎回評定3をいただいていました。

 

評価が上がるのは嬉しいけれど、先生によって評価が異なる点についても「なんだかなぁ」と思っていました。女子の授業を担当する先生は運動できない人間を「いないもの」として扱っているように感じていたので、体育の授業に参加すること自体が苦痛に感じていました。

 

 

周囲から浮いてしまう

 

 

団体戦のチーム分けで、私が入るとチームの雰囲気が一気に悪くなるのを感じました。

心優しい人が必死に私に指導してくれるのですが、教わった内容をなかなか形に出来ず・・・最終的には「もう何もしなくていいよ」みたいな感じになります。

授業の後、同じチームの子たちが私のことを「マジ最悪」、「学校来るな」と愚痴りあっている現場に遭遇してしまったことがあります。中には普段は仲良くしている友人もいました。

ごめんね、という気持ちになりましたが、何も言えずにその場を去りました。

彼女たちを不快にしてしまっている。でもどうすれば事態が好転するのか全く分かりませんでした。

体育の授業の前日は布団の中で「明日が来なければいいのに」と思っていました。

「試合をするよ」という日に仮病で学校を休んだこともあります。体温計をめっちゃ擦って高温にしました。すごく元気なのに、無理やり咳をしていました。親もうすうす仮病だと察していたんじゃないかなと思います。

 

 

「指導」をしてもらえない

 

 

私の体育の先生は、「出来ない」を訴えても「頑張れ」、「繰り返して身につけろ」としか言わない方が多かったです。

 「出来ない」のに何を繰り返せばいいのか・・・。

運動の苦手な私ですが、小学生の頃に校長先生が付きっ切りで後転を教えてくれたことは、今でも楽しい思い出として残っています。

たとえ出来ないままでも、「こうすればいいよ」、「こうやってみよう」と教えてくれて、ちょっとした進歩を一緒に喜んでくれる先生がいれば、私にとっての体育の授業は今ほど「嫌な思い出」として残らなかったのかなと思っています。

 

 

「体育嫌いな子」も楽しめる授業になればいいな

 

 

体育が嫌いになる理由は「体を動かすのが苦手」というだけでなく、「授業の中で失敗体験ばかりが積み重なっていく」というのが大きな要因なのかなと感じています。

団体戦で周りに迷惑をかける、出来ないことを責められる、「いないもの」として扱われる、頑張っても評価されない・・・そりゃあ嫌いになるよな、と思います。

もしいつか子供が出来て、私の運動音痴が遺伝してしまったら、私と同じように「体育嫌いな子」になってしまうのではないかと心配です。

 

小中は「体育嫌い」だった私ですが、高校に進学して、体育嫌いが少しだけ薄れました。

というのも、文化部に力を入れている学校だったからか、体育に本気な子が少なくて・・・。生徒の人間性も成長していたのか、団体戦で負けても悔しさを前面に出す人が少なかったです。そのおかげで、出来ない自分をネタに出来るような雰囲気がありました。

失敗を笑ってくれて、稀にある成功を一緒に驚いて喜んでくれる人がいたおかげで、運動嫌いでもそれなりに楽しく授業を受けることが出来ました。

 

今体育が嫌だなぁと感じている学生さんや、未来の子供たちにとって、体育の授業が少しでも楽しいものになればいいなぁ。楽しくしてくれる誰かが身近にいてくれればいいなぁと思います。

体育の授業が、「運動得意な先生」と「超運動音痴な先生」の2人ペアで行われて、運動音痴組は超運動音痴な先生と一緒に小さな成長を楽しむ時間になったらいいのにな、とありもしない未来に期待しています。